There is strong shadow where there is much light
- Johann Wolfgang von Goethe -
強い光には、強い影がともなう
ゲーテ
経済的な成功を手に入れるための道のりを歩み始めた人間は、必ずある試練にぶつかることになる。
それは、善と悪、光と闇といった「二元論的な思考」を克服する試練だ。
「セールスは悪なのか?善なのか?」
「お金持ちは悪なのか?善なのか?」
「私は悪なのか?善なのか?」
「あの人は悪なのか?善なのか?」
「○○は悪なのか?善なのか?」
このような幼稚な思考を克服する必要があるわけだ。
(幼稚と断言した理由はこのあと解説させていただく。)
そもそも、二元論とは非常に人工的な考え方であり、自然界の道理とは相反する。
確かに、朝と夜は存在する。
しかし、自然界には夕方や朝方という朝でもなく、夜でもない、グレーな時間も存在する。
確かに、ライオンは生命を殺す。
しかし、ライオンがそうしなければ食物連鎖のバランスが崩れてしまい、あらゆる生命が無意味に死んでしまうし、ライオンも生き残ることはできない。
確かに、光と闇は対立しているかのように見える。
しかし、自然界においては闇と光は一蓮托生であり、どちらかのみで存在することはできない。
確かに、善や悪は存在する。
しかし、そもそも、悪がなけば善もなく、善がなければ悪もない。
さらに言えば、善や悪を決めるのは人間であり、それは、単なる「主観的な尺度」にすぎない。
主観的な尺度とは立場によって変化するものであり、非常に曖昧なものである。
一つのものが同時に善であったり、悪であったり、そのいずれでもなかったりすることがある。
例えば、音楽は憂鬱な人には善であるが、喪に服している人には悪であり、
耳の聞こえない人にとっては、善でもなく悪でもないものである。
スピノザ 「エチカ」
つまり、善や悪を明確に定義できるものは、自然界には存在しない。
このように、二元論の通りに成立しているものは自然界には滅多にない。
いや、もはや、存在しないと言っても過言ではないだろう。
要するに、二元論は理想論としては優秀でも、この自然界・人間界では全く役に立たないわけだ。
なぜならば、そんなものは存在しないからである。
言うなれば、二元論とは空想からうまれた化け物である。
ゆえに、お金は悪なのか、善なのかを議論するのは前提から間違っている。
お金とは単なる物質であり、単なる数値である。
それに、二元論をあてはめようとするのは、木で作った人体模型が神なのか、悪魔なのかを議論すること同じくらい無価値なことである。
そして、これは、あらゆる問題でも同様だ。
セールスは悪なのか、善なのか、
お金持ちは悪なのか、善なのか、
私は悪なのか、善なのか、
あの人は悪なのか、善なのか、
このような二元論的な議論から大きな成果を得られることは滅多にない。
いや、もはや、自明のことであるから敢えて断言しよう。
二元論に支配された者は必ずわざわいに苦しめられることになる。
なぜか?
こういった複雑な問題を考える際には、あらゆることをシンプルにしてみるのが一番よい。
公園で遊んでいた子供達が夕方になると急いで家に帰るのは、シンプルに「お腹がすいたから」、あるいは「親に怒られるから」であり二元論的な思考は存在すらしない。
このくらいシンプルな視点で考えてみれば、なぜ、二元論がわざわいをもたらすかが理解できるだろう。
例えば、営業マンを具体例として考えてみよう。
営業マンが収入を得るためには、成約を発生させる必要がある。
成約を発生させれば、収入が発生する。
収入が発生すれば、自分や家族を養うことができる。
自分や家族を養うことができれば、自尊心や安心感を得ることができる。
自尊心や安心感を得ることができれば、むやみに他者を害することはない。
むやみに他者を害することがなければ、余計なトラブルもおきない。
余計なトラブルがおきなければ、自分も、世間もわざわいを回避することができる。
では、ここで、営業マンが二元論的な思考に飲まれてしまい、「営業は悪である。」という神話を信じたとしよう。
営業は悪であると信じた営業マンは営業をすることができない。
営業をすることができなければ、成約を発生させることができない。
成約を発生させることができなければ、収入が発生しない。
収入が発生しなければ、自分も家族も養うことはできない。
自分や家族を養うことができなければ、自尊心も安心感も失い、生命すら危険になる。
自尊心も安心感も失い、生命すら危険となれば、余裕もなく他者を害することとなる。
他者を害することになれば、余計なトラブルばかりが発生する。
余計なトラブルばかりが発生すれば、自分も世間もわざわいを回避することはできない。
次に、経済的な成功の途中にいるビジネスマンが、「お金儲けは悪だ」という二元論的な神話を信じた場合もみてみよう。
お金儲けが悪だと認識すれば脳はあらゆる手を使ってネガティブな情報を集め、自分を正当化しようとする。
ネガティブな情報が集まれば、経済的に有効な戦略を考えることはできなくなる。
経済的に有効な戦略を考えることができなければ、経済的な成功はできない。
経済的な成功ができなければ、大きな収入は手に入らない。
資本主義の現代において大きな収入がなければ、さらなる展開も、前途有望なる未来も手に入らない。
さらなる展開や前途有望なる未来が手に入らないならば、毎日同じことを繰り返し、不満ばかりが溜まることになる。
毎日同じことを繰り返し、不満ばかりが溜まれば、人生に絶望するようになる。
人生に絶望するようになれば、全ての道は閉ざされる。
全ての道が閉ざされれば、あらゆるわざわいが群れをなしてやってくる。
あらゆるわざわいがやって来た時、正義であり、善であるはずの自分を正当化するためにも、世間や他者を責めるようになる。
世間や他者を責めたとき、さらなるわざわいがやってくる。
このように、二元論を信じた者に待っている世界は悲惨なものでしかない場合が多い。
もちろん、そうでない可能性も少なからずあるかもしれないし、木で作った人体模型を神だと言うかどうかは本人の自由である。
しかし、ここで改めてシンプルに道理を考える思考に戻ってみてほしい。
そもそも、ここで我々が考えるべきことは
「いかに成果を得ることができるか」
であり、それ以外のことは完全に的外れである。
ウサギを追っている鷹が考えるべきことは、いかにウサギを捕まえるかどうかであり、この世に存在しない化け物のことではない。
それと同じように、自然界・人間界に存在する我々も、実在する道理に思考を固定しなければならない。
さもなくば、正気を失った鷹が自ら木にぶつかるのと同じような目に合うことになる。
だからこそ、二元論的な思考に支配されている人々は例外なく貧しく、苦しむはめになるわけだ。
この世に存在しない幻の青い鳥は、所詮「幻」でしかない。
ゆえに、その青い鳥を求めて全てを捧げたとしても、無駄に時間とエネルギーを浪費したという事実のみが残るだけである。
そして、経済的な成功を求めている我々を迷わす二元論的な思考は、青い鳥などよりも価値がなく、つまらないものだ。
「セールスは悪なのか?善なのか?」
「お金持ちは悪なのか?善なのか?」
「私は悪なのか?善なのか?」
「あの人は悪なのか?善なのか?」
「○○は悪なのか?善なのか?」
断言するが、このような思考に大義は存在しない。意味もない。
残ることと言えば、無駄な思考で疲れはてた頭と、ストレスでボロボロになった心くらいである。
とはいえ、世間の多くの人々は、それでも諦めないあなたに対し、お得意の悪・闇といった二元論的なレッテルを貼ってくるだろう。
しかし、そもそも、懸命に生きる人間に対してそんな卑劣な態度を取る人々に正義や大義は存在しないし、そんな彼ら自身が二元論の矛盾を証明している。
ゆえに、決して、あなたの奥深くに潜む熱い「野心」を、「勇気」を、「覇気」を殺してはいけない。
君の魂の中にある英雄を
放棄してはならぬ。
~ニーチェ~
仮に、それでも諦めないことが悪であり、闇であるというのであれば、私は心の底からこう言いたい。
「どんどん闇に落ちればいい。そして、あなただけの強烈で刺激的な世界を手に入れればよい。」
と。
そう、私は心の底から「闇」をすすめたいのである。
その闇こそが、あなたの輝かしい未来を約束してくれるだろう。
There is nothing impossible to him who will try.
挑戦を続ける限りあなたにできないことはないのだ。
アレクサンドロス大王
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